路地裏散歩

特撮とかアニメとか感想と犬。

父性不在の物語

響鬼』が最終回に向けていろいろ盛り上がったり、サプライズがあったりした中で1、2を争ってビックリし、かつ納得したのが『ヒビキには師匠がいなかった』ということでした。


納得した理由については割愛しますが、更にそれとは別に、友人S氏からのこの言葉にものすごい天啓を受けました。

ヒビキに師匠がいないことについては、弟子たちに父親がいないこととシンクロしました。

明日夢は両親の離婚という形で、現在傍に父親がいない状況で、京介は父親を火事で亡くしています。父親というのは、こと特撮ヒーロー番組においては、「乗り越えるべき壁」としての扱いをされる事が多く、その意味では明日夢も京介も『壁を乗り越えようとしても、乗り越えるべき壁がいない』状況として描かれています。この場合の「乗り越える」というのは、捕らわれているわだかまりを「乗り越える」ということでもあるのですが。


また、鬼の師弟関係というのは、トドロキとザンキを通して、やはり「師を乗り越えていくもの」として描かれています。鬼の師弟関係を擬似的な親子関係とするならば、師は『父親・父性』として置き換えることが可能かと思います。
そうすると、ヒビキ自身にも『父親』、つまり『乗り越えるべき壁』が不在ということになるのですね。


明日夢は父親が作りかけていた犬小屋を完成させることによって、父と高めあう道を見つけ、京介は鬼の力を得て人を助けるという道に進むことで、人助けの道で命を落とした父親に追いつくことができた。共に、父親という影を通して、自分が捕らわれていたものから抜け出し、一歩成長しています。


一方ヒビキはというと、ずっと拒否しつづけていた弟子を取り、また自らが続けてきた「鍛えている」背中を弟子たちに見せることによって、『師としては至らなかった(なろうともしていなかった)自分』を乗り越えているんですよ。これは、やはりヒビキにとって大きな成長といえるでしょう。


こうして考えると、太鼓師弟は揃って「父親越え」を果たしているわけで、『仮面ライダー響鬼』という物語は、少年の成長物語と銘打ちつつ、実際はヒーローであるヒビキ自身の成長さえ描いた、成長譚だったのだなと、感慨深く思ったりもします。